2008年10月14日
賃貸保証人 茶谷 隋の建国までの出来事
隋の建国までこんなに深い意味があったとは知りませんでした。
楊堅の父・楊忠は北魏が西魏・東魏に分裂する際(後にそれぞれ北周・北斉が取って代わる)に宇文泰に従って西魏の建国に貢献し、大将軍を務め、随国公の地位を得ていた。
568年に楊忠は死去し、楊堅が大将軍・随国公の地位を受け継いだ。北周の武帝は宿敵の北斉を滅ぼし、更に南の陳を滅ぼす前段階として北の突厥への遠征を企図していたが、576年に病死した。
武帝の後を継いだ宣帝は奇矯な人物で、5人の皇后を持っていた。このうちの1人が楊堅の長女である麗華であり、麗華は宇文闡を生んだ。後の静帝である。
宣帝の奇行は留まる所を知らず、在位8ヶ月で退位して静帝に位を譲り、自らは天元皇帝を名乗って政務を放棄したので、静帝の後ろに立つ楊堅への声望が高まっていった。580年に宣帝が死去すると、楊堅は摂政として全権を掌握した。
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これに反発する武川鎮軍閥内の有力者たちは楊堅に対して反乱を起こす。この中で最も大規模なものが尉遅迴によるもので、一時は楊堅の押さえる関中地域以外の全てで反乱が起きるほどになったが、楊堅は巧みにこれを各個撃破して、北周内に於ける覇権を確固たるものとする。
同年末に隋国公から隋王へと進み、更に翌年に静帝より禅譲を受けて隋を建国する。(これ以降は楊堅を諡の「文帝」で呼ぶ)
南北統一
すでに北周武帝により南北統一への道筋は引かれていたのだが、慎重な文帝は細かい準備を丹念に進めた。
まず北の突厥に対して長城を修復して防備を固める。そして淮河と長江を結ぶ邗溝を開鑿して補給路を確保、更にかつて南朝梁から分裂し、北朝の傀儡政権となっていた後梁を併合して前線基地を作る。
そして588年、文帝は遂に陳への遠征軍を出発させる。このときの遠征軍の総指揮官が楊広(後の煬帝)であり、51万8千という過大とも思える大軍の前に、翌589年に陳の都・建康はあっけなく陥落し、陳皇帝・陳叔宝は井戸に隠れている所を捕らえられた。
ここに西晋滅亡以来、273年、黄巾の乱以来と考えると実に405年の長きにわたった分裂時代が終結したのである。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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